かけこみリタイヤ―のダイヤリー

陰キャで隠居!58歳10か月でアーリー?リタイヤしました。

池内了「宇宙研究のつれづれにー「慣性」と「摩擦」のはざまで」青土社

戦争と科学者の協力に焦点をあてた本。
みなさん慣性の法則を知っていますか。すべての物体は力を加えない限り、その運動を持続するってやつです。コペルニクスの地動説に反対する人たちが地球がクルクル回っているなら静止している空気は後ろにふっとんで暴風になるじゃないかと言ったんです。ガリレオが海の上を動く帆船のマストのてっぺんからボールを落として、真下に落ちる実験をやってみせて納得させたらしいです。
電車に乗っていて物を落とした時なんで足元にまっすぐ落ちるのか理屈がわかっていませんでしたから、まさに蒙を啓かれた思いです。物理音痴ですみません。
副題が「慣性」と「摩擦」のはざまで、なのでこのような導入になったのですが、本当は時代の流れるまま慣性に流されるのか、逆らうのか、逆らった摩擦とどう向き合ったのか、科学者と戦争協力の観点から種々話を進めるのが主題なのです。
本論には、NASAチャレンジャー号爆発事故事故調査委員会でのファインマンの活躍、ここでは契約通り遂行したい上層部と慎重な現場の断絶が示され、思わず昔を振り返りましたし、グーグルのAI軍事利用とエンジニアの反対では、原爆製造や軍事協力プログラムに見るアメリカの全く別の側面を見て素晴らしい国だと思いました。
そして日本。文科省による大学統制がうまく進む一方で、競争資金獲得と事務仕事で研究時間が激減し、選択と集中で手っ取り早い応用分野に偏って研究の水準が落ちたこと、ポスドク問題を見ていた若手の大学院進学激減、方向転換するときには日本の国力は残っていないのではないか、との問題点にいきつきます。
日本の大学は、明治の富国強兵策の一環として技術教育の必要から帝国大学令が発布され、その後第一次世界大戦で資源調達が一時的に途切れたことで技術教育への傾斜が進み、1938年になってさらに科学に裏打ちされた技術でなければだめなんだ、純粋科学ではなく応用も視野においた科学にならねば、とのテクノクラート(技術官僚)からの問題意識の提出として「科学技術」という言葉が出来た、というくだりは新鮮な驚きです。
京都帝国大学日清戦争の賠償金で作ったとのこと、明治政府って貧乏だったんですね。
学問の自由が言われるようになったのはようやく第二次世界大戦後で、ここで「学」は「軍」と袂を分かちます。しかし最近の文科省の一般運営費の削減で貧した科学者たちが防衛装備庁や米軍の迂回融資の資金提供の誘惑に負けるかもしれない、との今日的な問題につながってきます。研究費不足に音を上げ、軍事的研究に手を染めるというわけです。そうではなく、大学は知という公共財を生み出す、人類の知的世界を豊かにするために存在するとの確信がここで確認されます。
エピローグは、天文学者らしく、地動説を1800年代に日本に紹介した3人、司馬江漢、志筑忠雄、山片蟠桃を紹介。そして寺田寅彦。物理学者ではありますが、夏目漱石とも親交深く短編小説を新聞に発表したり科学をテーマにした短文も沢山書きました。文理融合の一つの理想形として描き出しています。
それにしても、寺田寅彦の学位論文が「尺八の音響学的研究」とは驚きました。熊本第五高等学校で理科教師のバイオリン演奏に触れ、自分も買って練習したとか。
本の最後に文理融合、寺田寅彦をとりあげたのは、科学者が教養や文化を自身のうちに持っていなければ、研究の目的のみ達成するために手段を選ばず、結果の影響に頓着しないことでまんまと軍事に取り込まれてしまう危険を常にはらんでいるから、と著者が考えているからでしょう。文化の力を信じてくれている著者に、文化の一端である音楽を終生の趣味としている私としては、非常にうれしい心持です。同時に超文系人間として過ごしてきた私も、理の世界に道を求めるべき時代であると考えていたことを支持してくれているようで、更にうれしい気持ちです。

戦争を招かない最大の抑止力は、人間の理性であり、寛容の精神であり、それらを人間すべてが共有しているとの信念である。それが人間力による抑止の真髄で、日本国憲法の平和主義はここに根差しており、すべてはここから出発することを銘記すべきなのではないか、今私たちが自問すべきなのは、そのような憲法の平和主義を貫徹するような努力を本当に行っているか、ということなのである。私はかつて「ピカソで国を守ろう」というスローガンを唱えたことがあるが、平和主義は文化の粋が満ちている国でこそ実現すると思っている。池内了宇宙研究のつれづれに」青土社より