かけこみリタイヤ―のダイヤリー

陰キャで隠居!58歳10か月でアーリー?リタイヤしました。

人的投資の不確実性

今やっている仕事がつらいな、いやだな、先がないな、と思った時、一昔前なら転職や独立自営を思い浮かべていたと思いますが、今はFIREが存在感大きく選択肢としてクローズアップされる時代となりました。
現状から逃げ出すためのあこがれとしてFIREが注目されている。
20代30代の人がFIREを目指すことは悪いことではないが、生活費の切りつめと貯蓄や投資への過度の資金集中が結果的に自己投資を貧しくして自分の能力資本の開発がなおざりにされる危険がある、という警告がありますね。
限りある資金をどこに投入するかという選択の問題になるので、金融資産作りに気持ちが傾けば、当然自己資本の充実のための出費は相対的に低下するでしょう。

では自己資本の充実のための支出とは何でしょうか。
資格を取るための予備校通い、有料ネット授業などの支出、自分の労働価値の魅力を高めるための、外国語習得の勉強や技術向上のための勉強、経験値を上げるための支出といったものが思い浮かびます。他には、旅行や遊びの経験など心身への刺激も挙げられます。
これ以外だと、会社での上下関係者との飲食代の支出、上司へのつけとどけ、は死語になるかもしれませんが、各種交際費、組織内での円滑な人間関係の形成のための支出、といえばきれいに聞こえますが、評判を上げて、より給与の高い職務や地位につけてもらったり、より自分にとって興味深く経験も積めて裁量を多く使うような経験値を上げ、履歴書に説得力ある経歴を書けるようになるポストに異動する、そのための餌撒き、という色気が動機であると言っていいと思います。

私が気になるのは、人的資本投資の不確実性です。
後者についての不確実性はかなり高いですね。せっかく色々おごってやったのに陰で悪口を言われているとか、せっかく取り入った上司が失脚や転職で水泡の泡と消えた、なんて。
というか、みなさん笑うかもしれませんが、金額の大小はあれど、嫌われない程度の支出はあれこれしているでしょう。送別会の費用とか出席とか、ね。
あいつは変なやつだ、と思われて誘われなくなって支出が減ってラッキーという考え方、会社人生の過ごし方はもちろんあります。私も最後の方はほぼそれで過ごしましたから。
でも人事評定をつける上司が付き合いも人間性の内と考えているような人からすると、「あいつは、付き合いが悪い奴だ」と印象が悪くなる。同列の人間が二人いてどっちかを起用するという場合になったとき、絶対に落とされる。
まあ、仕事の内容だけでしっかり次のポストにふさわしいかどうか、考えてくれる人も増えているとは思いますし、自分が推薦した人間が活躍しなければ、推薦者自身にバッテンがついてしまうということもありますけれども、同じような人が候補で残った場合のぎりぎり最後の選択は往々にして好き嫌い。
さてでは勉強や資格取得といった自己能力増強の支出についての不確実性はどうでしょうか。これも結構ありますね。
以前私が職業的排他分野を持つ国家資格を取得した、というお話をしましたが、これだって資格を取得して、会社外部にいる知り合いや先輩に声をかければ、多分雇ってくれたり使ってくれたりしたと思いますが、そのごその人たちとうまくやっていけたかどうか、とか、やっぱり移動した職場の雰囲気に耐えられなくて飛び出したとか、そういう可能性だってあったし、まあ結局定年近くに「もういいや」=もういや、で辞め、再就職する気もなかったので結果的に使わなかったわけです。
またお金をかけて資格取得しても、職業集団に若いころから入っていないとだめで、経験がない人はいくら資格を持っていてもねえ」と言われたり、資格を取得したころには、職種としての求人が細くなっていたり不要になっていたり、それだけでお金がもらえるものではなかったりという、資格取得後の世界の動向がわかっていなくて愕然とする、ということだってありうるわけです。
結局、その人を取り巻く環境や、過去に一緒に仕事をした人との関係とか、資格そのものは客観的能力で得ることが出来ても、その後それでお金を貰えるようになるには、また別の属性や苦労がある、そこで頑張れる力があるかどうか、といった個別性が非常に強い世界になってくると思います。
もちろん、若い人であれば、そこで自分の経験したことのない各種困難が自分をさらに大きくしてくれるということもあるでしょう。でも逃げ出したい気持ちだってしょっちゅう起こりますよね。
インデックス投資以上に再現性がない、そればかりかその人の持つ属性で、同じ条件でも結論が変わることもあります。お金を積み立てるのとは、また別種の忍耐が試される世界ですね。

どんな経験でも自分で買って出て、気づきや刺激が得られることは人生の糧になりますが、それがお金に変換できるようにするには、また別の脳の力を使わないといけないとうことを言いたかったのでした。