かけこみリタイヤ―のダイヤリー

陰キャで隠居!58歳10か月でアーリー?リタイヤしました。

技術より知識がお金になりやすい時代

橘玲「残酷な政界で生き延びるたったひとつの方法」幻冬舎文庫を読み始めて考えてしまいました。
子供には、数学、英語と国語をしっかり学んで、将来しっかり稼いで自立した生活をできる人間になってほしいと願ってあれこれ仕込んでいますが、これは現代の社会が知識や思考を使うことで稼げる社会になっているからです。狩猟採集時代だったらほとんど役に立たない。少なくとも優先順位の非常に低いものだったでしょう。
私だって三十ン年間、概念操作でお金を貰ってきましたからね。
ただずっと疑問ではあったのです。こんな数字や法律なんぞという人間が作り上げた屁理屈を知っていじってお金が貰えるなんて、どこか変だなと。
だけど、人間の衣食住を直接提供する仕事は、エッセンシャルワークですね、どんどん低賃金化している。農業や製造業だってどんどん就業人口が減っていきましたし。かといって人間の感覚的な喜びに奉仕する芸術とかスポーツとかは、ハードルが高い。
もっともスポーツにしたって、人間の肉体構造から必然的に、または歴史上のきっかけという偶然から、テニスやサッカーや野球という形式が生まれてきて、その形式の中で技術を磨いて人気を集めるルールの工夫をして沢山の人にもてはやされるようになって初めてお金になってきた経緯を考えると、概念操作してお金を貰う知的職業とそれほど成り立ちに違いはない。
知的職業は、中間から下までなだらかな報酬のピラミッドになっているけど、スポーツや芸術は一部のお金がっぽりと多数のカツカツに分かれやすく、特にトップのはなやかさが目立ちます。だから職業によって分け前の山の形は若干違うけれど裾野でまったくお金にならないとも言い切れない。ゴルフだってレッスンで稼いでいる人はいるし、音楽だって音楽教室主催して食べている人は沢山います。
私がバレーボールでスパイクが打てないとか、歌はこの年まで一所懸命習ってほんの少しだけ通常人に近づいてきた一方で、大して習ってもいないのに遥かに素晴らしい声で歌って大勢の人を感動させることのできる人がいる。努力してもそれでご飯が食べられる見込みがまったくない分野というものがあるわけです。これがスポーツや音楽なら学校でちょいとやらされて「だめだうまくできないや、ハハ。」で済んでしまいますが、国語や英語、算数はそうはいかない。職業人の基礎的必修科目なのでできなければまともな職業に就くこともできない。
うちの子供は、親の遺伝でごく平凡な成績ですが、一緒に問題を解いたり勉強の仕方を工夫することを親子で考えて実践したりして、それなりに効果が出ているのでうれしいですが、私のバレーボールや歌のように、数学の記号操作や抽象化、英語の日本語とのずれや文法といった思考の枠組み自体を、どう努力してもまったく理解できないという人だっているわけです。
なんの取り柄もないから、学校で勉強を頑張って少しでもいい高校や大学に行く、という目標をそもそも立てようがなく、別の道を探さざるを得ない人たち。
スポーツや芸術は笑い話だけど、学校の教科に関しては笑い話ではない、という意味において現代は知識偏重社会です。
他の人が喜んでお金を払ってくれそうなもので、子供が好きな方面、得意な方面を伸ばして、それを元にどうやったらお金を稼げるか考えて、生活を成り立たせるようになってくれるといいなあ、というのが子供の自立を願う親としての人生行路の描き方なのですが、数学と英語とそれから国語が必須と言ってはみたものの、それが努力してもできない状態であれば、よりモデルのない道を探し続ける困難な状況があるのだということに思いを馳せました。