かけこみリタイヤ―のダイヤリー

陰キャで隠居!58歳10か月でアーリー?リタイヤしました。

鈴木孝夫「ことばと文化」岩波文庫

・象は鼻が長い
日本語文法の話題ではなく、私たちは「ぞうさん、鼻が長いわね」というとき、形容詞「長い」を言わせる基準はどこにあるのか、という話です。
何かと比べて「長い」と言っているのは間違いない。
例えば「このりんご、大きいね」というとき、私たちは過去に自分が出会った様々な林檎を思い浮かべてその経験から得られた基準を持って「大きい」という。これを種の基準といいます。
ところが象は鼻が長いというとき、過去に自分が見て来た様々な象の鼻と比較して、今言葉を発した対象の象の鼻が長い、と言ったのでしょうか。違いますね。
実は、象と呼ばれるものがあって、それが鼻を持っているのならば、それはすべて長いのだ、ということを言っているのです。
「キリンの首は長い」「豚のしっぽは短い」などすべて同じ表現が作れます。
ところで種の基準でなければ、いったいなぜ「長い」と言えるのでしょうか。
もう一つの可能性は比率の基準というもの。これは横幅に比べて縦の長さが長い場合、のっぽのビル、ひょろ長い高身長の人、英語でいうtallにあたる基準です。可能性はありますが今一つしっくりこない。
また象という種ではなく、例えば哺乳動物全般に広げて、話し手の経験から「長い」と言っているのでしょうか。いやいや、哺乳動物といっても鼻の形が様々で、平均的な鼻の長さはこうだ、という基準を感じることはできませんから、長い短いは言えません。
そこで作者の考え:人間の体の部分と全体の比が、人間以外の動物を見る時にも、尺度として(時には拡張的比喩的に)用いられているのだと思う。
「人は手が長い」と言わない。「〇〇さんは手が長い」とはいえるけど。
とすると象の鼻やキリンの首は、私たちの調和感覚の範囲を逸脱している、その異様さに対する驚きの表現として発せられたと思われるのです。

・「石」とは何かを言葉で説明できるか
ある辞書では「土や木よりも固く、水に沈み、砂より大きく、岩より小さいかたまり」とある。え?
じゃあ、鉄、鉛、骨、ガラス、みんな石になっちゃうじゃない。おまけに「砂」「岩」ってなんなのか。
このようにさらに易しい一語に置き換えができない“基礎語”とでも呼ぶべきもの。
じゃあ私たちはどうやって「石」というものを知ったのか。
それは、石の実物を見たり触ったりしたときに「i-shi」という音とセットで覚えた。
だから音と結合した個人の知識体験である。しかしその意味をことばで伝えることはできない。例えば熟れていない柿を食べた時の「しぶい」という言葉の“意味”を他人に伝えることはできるでしょうか。できませんね。
「しぶい」という感覚がどのような方法を取れば、読者が得られるかという道案内しかできない。「熟れていない柿を食べてごらんなさい、そのときあなたが自分の舌で味わう感覚が日本語で言う「しぶい」というものなのです。

この後、言葉を足掛かりに、文化の違いに論が展開していきます。
・I=わたし、You=あなた
英語では、話す人がI、話しかけられる人がYou。ところが日本ではどうですか。「わたし」「ぼく」「わし」「おれ」「あなた」「おまえ」「きみ」「〇〇ちゃん」などなど。
子供が父親に「おとうさん」と呼びかけるけど、父親は子供に「むすこ」「むすめ」と呼びかけない。かと思うと、久しぶりに会ったいとこの子供たちに「おばさんが、お年玉をあげるわね」という。いきなり一番小さい子の立場に成り代わってしまった。外国人はこういう言い方にとても驚くそうです。どうやらヨーロッパ諸語は人称代名詞がもっぱら話し手と受け手を自覚的に区別するためにあるのに、日本語では相手との関係性を表すために使われているのではないか。

私がこの本を読むことになったきっかけは、上の子の受験用過去問題集に題材として使われていたからです。
上の子が「面白いよ」というので読んでみた。

言葉自体が、その文化圏が持つ、世界観、世界の捉え方への表れであり、それがあまりに生得的であるから無自覚である。となれば他の文化の言葉や習慣を知ってみて、自らを相対化してみたら驚く、これがとても楽しいのですよ、と作者はおっしゃっています。

日本語の癖、先ほどの人称代名詞の話で言うと、長幼の序が無意識のうちに言葉によって位置づけられていることもわかりますね。当たり前がひっくりかえされて、とてもびっくりする本です。