かけこみリタイヤ―のダイヤリー

陰キャで隠居!58歳10か月でアーリー?リタイヤしました。

18世紀のシベリア探検

ティーブン・R・バウン「青狐の島」という本を読んでいます。
デンマーク人、ヴィトゥス・ヨナセン・ベーリングのカムチャツカから北極海アラスカ半島への冒険の記録です。お察しの通り、ベーリングさんは、最後の秘境と言われたカムチャツカ東岸から先がどうなっているのか測量して明らかにした探検隊の司令官で、“ベーリング海峡”という名前で知られています。ベーリングから50年後にシベリアとアラスカの境を探検したクック船長が名付けたらしいです。
さて、お話は、そもそもロシアによる探検を思いついたピョートル一世(1672-1725)から始まります。
型破りな人物で、17世紀にして既に「西欧の文化、科学をロシアにも取り入れたい。国を発展させたい」と願って、西欧に使節団を送り込む。
送り込むったって自分で使節団の頭となって各国を回りました。デンマークへ立ち寄って当時強国だったスウェーデンを一緒に破ろうとデンマーク国王の了解を取り付ける。オランダでは東インド会社の造船所へ行って、なんと部下たちと一緒に造船技術を学ぶ。皇帝が船大工修行をしてるぞ、と、あんまり見学がくるので、東インド会社は造船所内に小屋を建て、ピョートルはそこに寝泊まりして、最後は一から船舶を作り上げます。
形式や儀式が大嫌いで、職人や聖職者、科学者、哲学者、色んな人と実際の経験や思ったことを酒を酌み交わしながら話すのが大好き。
当時バルト海スウェーデンが抑えていた。ロシアが確保している海港は北極海に面したアルハンゲリスクだけ。一年の半分は凍ってしまう。黒海に面したクリミアはサファビー朝イランとオスマントルコが支配している。
清国との国境は1689年のネルチンスク条約で確定しているが、清国は、貿易をしようと持ち掛けても「商売という下賤なことに興味がないし、ロシアの品物はどんどん入っている」とけんもほろろ。挙句の果てにアムール川から南に入るのを禁止されてしまいます。
そこで、東シベリアから先、もしかしたら、その先にアメリカ大陸がきっとある。そこをつきとめて港を作って海軍を充実させ、西欧と同じように商船を走らせて貿易して豊かになろう、海軍を充実して船を守ろう、と考えました。
バルト海では、デンマークと語らって在位中のほとんどの期間を費やしてスウェーデンと闘い、出口を確保し、サンクトペテルブルグという港町を作りました。
と、ここまでお話すればお分かりだと思いますが、ロシアの支配者のDNAは不凍港を求めて南下、なのですね。
西欧視察中に、ロシア精鋭部隊ストレリツィが異母姉ソフィアを皇帝にしようという反乱を嗅ぎつけてベネツィア視察を切り上げて帰国。ソフィアは修道院へ押し込め、ストレリツィの将校は死刑拷問、不具になったらシベリアへ追放、部隊の家族はモスクワから追放と非常に厳しい措置を取った。
そしてリトアニアの農民で家事をしていたマルタ・スカヴロンスカヤを愛人とし、後に妻とした。これがエカチェリーナ一世です。在位は数年と短かったですが、その後ピョートルの姪、アンナ・イヴァノヴナが女帝となり、伯父ピョートルの意志を受け継いで東シベリア探検隊を継続。という所まで読みました。
考えてみると、人類の歴史の中で絶対権力者の王国という時代はどの場所でもとても長いですね。イギリスのマグナ=カルタや権利章典フランス革命みたいな動きって本当に突然変異といってもいいくらい。そしていくら国を発展させた権力者でも晩年は能力が衰えてずるい部下の口車に乗せられたり、自分の死を恐れて、目を背けるために苛斂誅求に走ったり、子供に継がせても、裏で操る人間が出たり、反乱でひっくり返さりたりと、権力者交代のたびに戦乱内乱となって庶民は迷惑をこうむる。
十数人単位で部族社会に分かれているニューギニア島でも、「〇年前に〇族のやつらに、俺らの祖先が殺された、奴隷にされた」と言いだして、部落を襲撃。そして和解調停。しばらくして後に今度はそちらの部族から襲撃を受ける。という繰り返しがあったそうで。インドネシア政府とオランダは復讐を厳しく禁止したそうです。
政権交代する時に、権力を追われた者が静かに暮らせる仕組みがないと、権力者は耄碌しておかしくなっても権力の座に座り続けて国を誤ってしまう。
あ、もう一つ気が付いた。
シベリアって、本当は誰の物でもなかったということ。それぞれ土着の民族が静かに暮らしていたのに、ロシアの徴税官が置かれると、中央の目の届かないのをいいことに賄賂をとりしこたま儲ける。
ピョートルは、シベリアを探査したいとのフランス政府の申し出を断って、なんとか自国で国境を画定したい開発したい、と強く願っていたそうですが、土着民にとってそれは余計なお世話。結局帝国の法と意向を浸透させるためのシベリア征服であったということです。そして辺境の国境が“明らかに”なってくるから、国家と国家が境目の領有を争って衝突する。
本当は誰のものでもない、住んでいる人たちが緩く支配している共有地入会地のようなものなのに。国家の形がはっきりしてくるから、衝突と争いが起こる。アフリカ大陸の民族紛争は国家という枠を無理やり作ったからこそ激化した側面があると思います。
国家は法秩序の施行を通じて私的な争いに終止符を打つ力があるけど、国家対国家、その境目で軋轢を生んで、争いのタネを蒔いている負の側面をどうにかするのが人類の課題でしょう。もちろん一国単位では、権力者が暴走しないためのしくみづくりをさらに進めないといけませんね。
逆転の発想で、国の形をもっとずっとぼんやりした形に戻せるとよいのですが。多分欧州共同体は、その方向へ向かう途中の姿なのだと思います。