かけこみリタイヤ―のダイヤリー

陰キャで隠居!58歳10か月でアーリー?リタイヤしました。

食事の支度をエスキモー並みに簡略化したい

本田勝一「極北の民族」を読んでいて、エスキモーの生活に学べないかなーと思ったこと。
1970年代のエスキモーの生活について描かれた箇所。家の入口脇は気温が低めなので、獲ってきたヘラジカの頭やアザラシの肉をどーんと置いてあります。子供は乳離れするとすぐ自分用のナイフを持たされる。家族は誰も彼も自由に好きな時間に、自分のナイフで肉を切り取って食べる。一緒にテーブルを囲むということもないし、誰かが寝ている夜中でも勝手に起きていて食べていても誰も文句を言わない。
生肉がどーんと置かれているだけ。
もちろん、家庭の主婦が食事を用意したりお皿を出したりということは一切しない。

これ、いいかもしれませんね。
しかし考えてみると、そもそも調達してきてそのまま置いておける食べ物って、温帯で生活していると添加物沢山のスナック菓子とかになっちゃいますね。それも封をしていないと湿気るし、そんなにもたない。レトルトは温めてお皿に開ける必要があるし、百歩譲って電子レンジでチン、を三歳児に教えるのもありかと思いますが、設定時間を間違えると煙が出たり爆発したりする。コンロは危ない。
メタ思考で「そもそも食事の準備とは」という所から考え直して、家事を根本的に省く重要なヒントになるかと思いましたが、日本での食材はというと、
・腐る
・結局何らかの下ごしらえがいる
点が問題。だめか。

そうすると、野菜や果物を転がしといて「勝手にかじれ」とかぐらいしかできないか。でも野菜もしなびたり黄色くなったりしますものね。
まとめて調理とかの選択肢以前に、そもそも調理しないという選択もメタ思考でよいかなーと思ったのですが、うまくいかないものですね。
気候が厳しく、どこでも天然冷蔵庫だからこそできる技である。

でも
一家団欒とは何か、食事を一緒にとらないと一家のきずなは深まらないのか。
子供の話を引き出すのに温かい食事を一緒にという役割はわかるけど。
一日三食という習慣だって、江戸時代は一日二食だったらしいし、私の尊敬する栄養学者、川島四郎さんによれば、「時間を区切っての食事は、一時に大量の食物が胃に入るので胃の負担が大きい。胃酸過多になりやすい。」といって、塩昆布やナッツを机の引き出しに貯めておいて随時しゃぶっていたという話もある。食事の回数を細分化して胃の負担を減らしていたといいます。

でも
塩昆布やナッツみたいな乾きものや冷えたものじゃなくて、やっぱり温かいものが食べたい。私は。

なので食事の支度の省力化をメタ思考して、そもそも食事とはというところまでさかのぼって考えられたところまではよかったのですが、ことごとく「それいいね、採用」のゴールへたどり着くこともなく、粉砕自滅してしまった。
大体、エスキモーはとってきた動物を切っておいただけなのに対して、こちらはスナック菓子だのレトルトだの、同じ人類が加工したものを流用しているだけだから、自分じゃなくても他人が手間をかけた点でメタ思考的でない解決方法だ。
やぶれたり。

付け加えると、エスキモーの主婦の方々は、食事を作らないからヒマというわけではなく、獲ってきた動物の皮を口で噛んでなめしたり、動物の腱で糸を作って靴を縫ったりと、忙しい日々を送っています。