かけこみリタイヤ―のダイヤリー

陰キャで隠居!58歳10か月でアーリー?リタイヤしました。

正岡 明「手紙からみた明治の群像 子規の叔父加藤拓川と日露戦争の時代」雄山閣

加藤拓川(恒忠)は、大原寒山・しげ夫妻の三男として生まれ、加藤家へ養子となりました。一番上の長女が八重さん。正岡子規の母です。ですから正岡子規は甥っ子ということになります。拓川さんには三男二女の子供が生まれ、三男忠三郎さんが、大正三年に正岡子規の妹、律さんの養子になります。忠三郎さんは上野あやさんと結婚して二人の子供が生まれ、次男の明さんがこの本の著者です。
では加藤拓川さんとはどんな人物だったか。この人、日記にはそっけなく事実を簡潔に書いていただけですが、お酒をよく飲む、人とよく付き合う。交友関係が広い。そして、生涯に渡って受け取った手紙類、メモ、辞令などをすべてとっておいた。
それが二度の世界大戦や阪神淡路大震災を潜り抜けて著者の手元にある。
それを専門家の助けを借りて読み解くことで、拓川とその周辺のみた明治・大正という時代を読み解く、という構成になっています。
拓川さんご本人も中江兆民の仏学塾に入ってフランス語堪能となり、ベルギー全権公使なども勤めておりますが、やりとりした手紙の相手のうち現在でも知られている方を一部ご紹介しますと、
秋山好古 原敬 陸羯南 西園寺公望 犬養毅 牧野伸顕 土井晩翠 渋沢栄一 山県有朋 伊藤博文 徳富蘇峰
欧州で二十年近く外交官として活躍、その後シベリア出兵時に合わせて出張し撤兵を完了、食道癌を患ったが、松山市長として教育の普及に努め、遺言状では、市長として何もできなかったからということで、被差別部落占有の相向寺に墓を建ててくれと。墓碑銘は「拓川居士骨」とだけ。
本文から一か所、拓川さんの文章から一つ、それぞれ引用します。
シベリア出兵の最大の教訓は、一度派兵してしまうと撤兵がいかに困難となるか、そして犠牲者が増大するほど、その死を無視できなくなり、泥沼にはまっていく。この教訓は太平洋戦争でも生かされず、桁違いの惨禍を招いてしまった。それでも明治大正まではしっかりした指導者が居て、政府が軍部をコントロールできたが、昭和に入り逆転して、リーダーシップを発揮できぬ内閣は軍部を抑えられなくなって、その上マスコミの扇動と民衆の熱狂、報道管制などが相乗効果となって、日本は奈落の底へ落ちて行った。その根底には「統帥権の不備」があった。
前にも触れたが、統帥権とは軍隊を動かす権限、軍隊指揮権のことであり、この権限が内閣の下になく、内閣から独立して、天皇の下にあったことに組織構造上、問題があり、その憲法の解釈を権力の都合によってねじ曲げていくことによって、太平洋戦争のように暴走と悲劇を生むことになる。(本文159ページ、ただし赤字強調はわたくし)

愛国心と利己心は其(そ)の心の出処も結果の利害も同様なるゆえに、若しも一人の私を咎めば一国の私も咎むべし」と英国の学者スペンサーは言えり。
実に愛国主義の発動はとかくに盗賊主義に化して外国の怨(うら)みは人類早退の怨みとなるゆえ、人間世界に此心あらんかぎり天下泰平は望みがたし。
1886(明治19)年 愛国論緒言 加藤拓川、二十七歳の時 (本文202ページ)

205ページからは「特別編①子規・最後の旅」と題して、正岡子規の有名句、
柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺
の発句のなぞに迫ります。こちらもお楽しみに。