三井美奈さんが産経新聞パリ支局長時代に、父ベルト・レーリンクの研究者でもある三男ヒューホ・レーリンクさんが保管していた書簡や日記とご本人の翻訳協力をえて描き出した人間像である。
極東国際軍事裁判所条例を根拠に東京裁判が始まり、当初9人の判事が着任した。
オランダ代表のレーリンクは、戦時国際法としてはパリ不戦条約(ケロッグ=ブリアン協定)が根拠となるが、これは罰則が定められていない。後出して死刑を最高刑とする判決を出せる根拠となるのかはなはだ疑問に思っていた。
また宣戦布告のない違法戦争を起こしたとしても、戦闘員を殺人罪でさばくことに強い違和感を持った。
戦勝国がこのような前例を作ってしまうと、敗戦国の将軍たちは全員処刑されてしまう。
私が思うに、後年連合国のどこかの国に負けてしまうと同様のしうちを受けるわけで、その可能性はまったくないのだ、と特にアメリカは自信をもっていたのでしょうね。
ベンブルース・ブレイクニー弁護人(米国人)が「真珠湾攻撃が殺人罪に相当するなら、広島に原爆を投下した者、計画した者の名前をあげることができる」
検察側商人として出廷下リチャードソン太平洋艦隊司令長官。法廷では「道義に基づいた通告」がなされないまま攻撃が行われたと証言するも、東京裁判には強い疑問を抱いており、レーリンクとの会話で「裁判のせいで、捕虜になった将官は起訴され処刑されることになりかねない。残虐行為を犯したり命じた責任者の処罰は賛成だが、侵略戦争を犯罪と呼ぶことには反対である」1940年にハワイへの主力艦隊の常駐に反対し、ルーズベルトに「日本の攻撃を誘発する」と直接抗議し、解任される。
米国は孤立主義の伝統が強く、95%が戦争反対だったが、真珠湾攻撃を受けるや95%が戦争支持となった。リチャードソンによればルーズベルトは「米国領フィリピンが侵略されたって米国人は戦争をしたがらない。しかし日本人が過ちを犯せば私は宣戦布告をできるようになる」と言ったそうである。
米国は1922年のロンドン海軍軍縮条約会議以前に日本の暗号表を手に入れて解読していた。
オランダ政府からの政治的圧力。オランダの国際的な立場と自身の判事としての良心のせめぎあいのなかで、レーリンクは平和への罪概念を作り上げていく。勝者は平和をもたらす義務があるのだ。そのためにはナポレオンがセント=ヘレナへ流されたように指導者を排除する権利がある。ただしそれは終身刑止まりで死刑を宣告することはできない。
そして判決に署名するが、自分の個人的見解を公開することを決意する。
1947.10.11「…あなたが短い独自意見を出すと決意したのを知り、心から喜んでいます。(中略)我々は世の中の偏見に仕えるために集ったのではない。たとえ、世論を傷つけても、自分の信念を犠牲にすべきではないのです。(後略)ラダビノド・パル」
東京裁判でインドのパル判事が反対意見を書いたのは知られているけど、オランダのレーリンク判事もこの裁判に疑問を持ち反対意見を書いたことはもっと知られて良い。