羽田圭介「滅私」を読みました。筋そのもののネタバレはありませんが、登場人物のネタバレとちょっとだけ人間関係のネタバレが”おまけ”の箇所に一つだけあります。ご了解ください。
ミニマリストにも色々いる
断捨離の行きつく先はミニマリスト。ところがその行きつき方も色々ある。
必要最小限の服で回し、1kに暮らし家族も持たない。必要だと思ったものは買って使うが、以後使わないと思ったら躊躇なく捨てる。
リュックに全財産を詰め、ホテルなどを転々として暮らす。
配偶者も子供もいるけど、独身者と同じくらい物がない家に住む。家族に自分の基準を強制しているともいえる。
値段の安い田舎の土地にタイニーハウスを建てて半分自給自足を実行していくが子供ができると分かったらタイニーハウスの隣に普通のログハウスを建てて子供が散らかすことやおもちゃや用具を買うことを容認する。方向転換ですね。
P34捨てにハマるのは、物なんていつでも買えると思っている経済的余裕のある人間か、限られた可処分所得の中で幸せを感じようとする貧乏人のどちらかにふれている場合が多い。
捨てられない人
みんな物や人間関係に囲まれて生きています。ある時点で自分の欲求にしたがって物を買ったり人との繋がりを求めて出かけていく。そしてモノや人間関係も自分の器がそれにたえきれない位溢れてくると捨てる。
ところが「いつか使うかもしれない」「他に替えがまだない」と言い訳をして、使いもしないモノを取って置いたり、煩わしいと思っているくせにずるずると関係を断ち切ることができない。“年賀状じまい“に対する私の態度なんかこれでしょう。依存もそれかな。
自分の意思のコントロール範囲を超えてしまうと「汚部屋」「ごみ屋敷」「依存症」となって出てくる。
ミニマリストの極北
じゃあ逆に捨てる方向でどんどん進んでしまうとどうなるのか。
P81捨て思考になると自分にとって大事なことの意思決定能力は高まるが、それ以外の曖昧な物や混沌、難しいものが苦手になり、どちらかにふりきったものしか受け付けなくなる。
P83持たないことで金銭的、空間的な煩雑さから解放された余裕で、次に何がしたいのか。…若いうちから、寝たきりの老人みたいなのっぺりとした生活に近づこうとしているのか。
こうしてのっぺりとした個性のない画一的な人間が出現してくる。それをさして「滅私」と題をつけたのかな。
断捨離もほどほどに
とすれば、ある程度断捨離は続けるけど、多少わずらわしい物や人間関係は持ちつつ過ごしていく、と言うのが多くの人の立ち位置ですね。他人の価値観を少しでも認めるのであれば自分の価値観を押し付けずに緩やかに感情を発露して一緒に生きていく。
P136ほとんどすべてものは替えがきく。そう感じてしまうと、愛着がわきづらい。人間関係だってそうだ。だからこそ、自分から愛着をもつよう能動的にならないと、自分の生ですらも、代替可能で意味のないものになってしまう。
というより他人に愛着を求める社会的存在でありたい欲求があります。「私はこれが欲しい」と求める所に各人の個性が見いだせるとでもいえますね。
投資との類似点
自分にとって心地よいポートフォリオが持続可能だ、という物言いと丁度いい断捨離具合には共通点がある。
安全資産と投資資産の割合でいえば、極端に振り切ったポートフォリオを意識の上では「いい」と言ったとしても市場の暴落や暴騰で後悔するということは、実は無意識界では「心地悪い」と感じていたのかもしれません。
スタート地点ではどの程度が心地よいのか、強がってリスク100%でいくぜ、って思っているかもしれない。それが市場の急変や自分の立ち位置の変化で露になり試される。少しずつ修正へ向かう。また心地よい許容範囲の広さ狭さも一概にはいえないでしょう。
こればっかりは試行錯誤し続けていくしかありませんね。
簡単に捨てられるものとそうでないもの
脱線しますが、洗濯機や冷蔵庫が壊れたら躊躇なく買い換えますよね。
生地が薄くなって穴の開いたTシャツはどうでしょうか。愛着があれば袖が破けるまで捨てませんか。
それに対して、自分の肌の色に合わない服、袖が長すぎたり身頃がちょっと苦しい服、しかも高価だった服は「いつか着るかも」と思って捨てにくいですよね。
これは故障した家電や穴の開いたTシャツと同じで、自分としては機能が不要になっている。ただしそれが形となって見えにくい。おまけに投入した資金分自分が使い切っていない感、または、判断を間違って資金を投下してしまった自分を認めたくない気持ち、そんなものがくっついているので捨てにくい。
取得価額を下回っていて今後も持っている価値は薄いとわかっているけど売れない株式と似ています。
おまけ
「滅私」の主人公は、付き合っている女性が買ってきた食べ物をもらって「おいしい」と言って一口食べた後、見えないようにゴミ箱に捨てた。それを女性に見られた。
そののちふられてしまうのです。そりゃそうだ。だけどそれはどうして?
私が考えた答え。
① 食べ物をすぐ捨てるなんて倫理が崩壊している人間は気持ちが悪い。一時も一緒にいたくない。
大竹しのぶが明石家さんまの「すっごく嫌いなところ」として食べきれないほどの食事を注文して、あげく手をつけないで捨ててしまう所、って言っていたなあ。
主人公は別の状況で「捨ててしまう罪悪感」を抱えて誤魔化していないからいいんじゃないのと理屈をこねていましたね。それだったら「これは結果的にカロリー取りすぎになるから食べることは不可能だ」って貰うこと自体を断る方が数倍マシですね。でも自分のシュッとした体を維持したいからってだけで好意の食べ物すら受け入れようとしないってどんだけナルシシストなんだよ、ということで結局ふられるかな。
② 社交辞令の距離感のままずっといって自分の生の感情をださない、恋人の前で油断してくつろがない人とずっと一緒にいる価値を感じない。
自分の理屈付で黙って浮気しそうです。
社交辞令に変換するなら一口食べて「ごめん、ちょっと口に合わないので、もういいかな。せっかく買って来てくれたのに。」位ですか。
いや。アレルギー症状が出ないんなら、無理して食べなさいよ。
なーんてね。
自分の理屈を振り回して、すべて理解してもらおうなんて、わがままの極みである。
「滅私」の物語自体は、もっと別の方向にいくのですが、私としては断捨離の行きついた先の人々の感情について登場人物のタイプ別にもっと細かく書いてほしかった気もします。でも二時間程度でさらっと読めてしまいました。
作者が匂わせるだけで書いていないことを想像して言語化しようとすると膨大になりそうですけどね。