かけこみリタイヤ―のダイヤリー

陰キャで隠居!58歳10か月でアーリー?リタイヤしました。

作曲家の意思は絶対なのか

昔、コンクールで大久保混声合唱団がブラームスの“ネニエ”を自由曲として演奏する際、長い前奏をカットして演奏しました。自由曲の演奏時間には制限があり1秒でも超過すると失格、審査対象外となってしまうからです。
ブラームスは死後50年(今は70年ですね)超経っていますので著作権法で著者に許諾を得る必要はない。同一性を保持しているかどうかという著作人格権は問題になるのかもしれないけど、原曲を編曲することだって可能だし、一部抜粋は引用とも捉えられる。同一性を侵害していることはないでしょう。
ディズニーのキャラクターなどは、著作権の使用許諾を得ていても、キャラクターを歪めたり目を変えたりして提示することは禁止条項を入れていますね。これがディズニーだっていいながら、「なんだか形が変だ」ではディズニーと謳ってまがいものを提示してお客さんから「ディズニーってこんなもんか」と思われてしまうからそれはよくわかります。
では楽曲はどうなのか。近代著作権法が確立するはるか以前は、その作曲家を尊敬するあまり、フレーズを引用して自作の曲中にとりこんで「〇〇氏に捧ぐ」みたいな副題をつけることもよくあったし、副題をつけなくても作曲したり演奏したりするのはギルド、組合の仲間内だから「ああ、あれはあそこから取ったのか」というがすぐわかってしまう。現代でいうところのオマージュというやつが結構あったらしい。
それでコンクールのための“カット”に話を戻しますと、当時現場で聞いていた時は私も批判的だった。
伊藤みどりさんがオリンピックでラフマニノフのピアノ協奏曲第二番を部分部分カットしながら演技に合わせて使っていた時も、批判的な目で見ていました。
でも今は違います。そりゃいかにも私のオリジナルでござい、といいつつフレーズの大部分を引用して曲に仕立て上げちゃうようなことはだめだと思いますが、部分をぶったぎって上演することは、却ってその曲に触れる人が増えてファンが増える可能性を増すよい機会なのではないか、と積極的に考えるようになったのです。
大体作曲家の意思として、この曲は全体を通して上演されて始めて私の表現したかったことが演奏家によって提示されたのだ、なんて考えている人はいるのでしょうか。
さわりから入って、原曲を聞いてくれる人が増えることこそ喜ばしいのではないかな。
自分が作った旋律を色々な人が変奏したり、取り込んだりされた方が、学者論文の引用件数ではないけど、名誉なことではないかしらん。
とはいえ、作曲家によって意見は色々分かれると思う。「こんなひどい編曲をするようなら、もう編曲の許諾はださない」って怒る人も現にいました。
とっくに死んじゃった作曲家だって、自分の作品を未来に発掘されたのはいいけど、楽譜に書いたことから遠く離れた状態で紹介されたら、激怒するのか、それとも「そんな表現方法もあったのか」と驚いて喜ぶのか。
音楽や演劇という時間芸術は、上演する人が媒介となって解釈が必ず介在するから合意の程度は難しい。私は上演自体が二次的な作品の作成、又は、作品としての一完成形の表現だと思います。だから作曲家は笑って許してくれるとよいなーと思います。