かけこみリタイヤ―のダイヤリー

陰キャで隠居!58歳10か月でアーリー?リタイヤしました。

自己肯定感とは

私が考える自己肯定感とは、「あーわたしはここにいていいんだ、存在していいんだ」という意味のこと。自分の存在を自分で受けいれて肯定するということです。
ともすれば、他の人をがっかりさせているんじゃないか、あーダメな自分、他の人はちゃんとしているのに自分は、と比較して劣等感に囚われている意識が前面に出てきて「存在価値がない」と思いがちだったので、それをすっとばして無条件で自分を肯定する、ということは難しかった。

ここでの他人は自分の頭の中で考えて想像している他人の自分へ対する評価なので、よく考えるとリアルな他人は登場しません。

ところがこの自己肯定感を他人に拡張してきて「自分は正しい。私が正しいと思っている姿勢や態度、ふるまいから外れているあなたは正しくない。」と攻撃してくる人が一定数いる。この自己肯定は、存在の自己肯定ではなく、自分が正しいと思っている社会的な条件に合致している自分という、条件付きの自分肯定から出発しています。
だったら自分の行動規範としてだけ考えて、他人が同振舞おうと無関心でいてくれればいいのに、どういうわけか「自分と同じじゃない」と思うと攻撃を発動してくる。

こういう感情ってどういう原因で起こるのかと考えたら三つほど思い浮かびました。

一つ目。実は自分に自信がないので、自分より優れていると思った他人を見つけると、それを密かに見習って努力をするという方向にいかず、自分と同じ段階にひきずりおろそうとする。そういう「同じ」を力で作り出そうとしている。

二つ目。嫉妬が噴き出しそうになる自分を納得させるために腹いせの攻撃をして貶めて、自分の方が優れているんだと思い込むために、他人を押さえつけて自分を浮上させようとする。マウント取り。

三つ目。自分のやり方が正しいから、これを他の人も見習うべきだと考えるおせっかい。

よく親から「お前はだめだ、だめだ」と言われ続けてすごく嫌だった、という経験を語っている人や、それを自分より更に弱い立場だと思っている人に攻撃を振り向ける人などの話を聞きますが、これみんな自分に対する不満や不安が他人に噴き出しているだけで、いうなれば八つ当たりってやつですよね。
劣等感や嫉妬はわかる。共感するわけじゃないけど。

よくわからないのは三番目。新卒で職場に入って二年目にその手の先輩が下りましたが、悪気はないから始末が悪かった。飲み会では率先して注文を取り、ビールは先に先輩に注げ、とかは礼儀の範囲だから分からないでもないけど、瓶のラベルは上に向けてビールを注げ、となるとわけがわかりません。何か自分の中で沢山の規制や決まりごとがあって、それに沿っていないものを見ると不快になる。私に気を使えってことかしらん。

他人が失敗したり、それで弱っていると、ここぞとばかりに攻撃してくる人もいますけど、これは二番目の嫉妬だと思いますよ。他の奴ばっかりうまくやりやがってという、対社会に対する不満が鬱積してそうなる。現に私が新任課長だった時にやたら攻撃的だった係長は、翌年課長になった途端人間が変わりましたから。

他人がどうあろうと気にしないし、自分の情けなさで自分を責めがちな私とは違う力学が働くのでしょう。
しかし攻撃性の人たちって、自分を省みる、内省ってしないのだろうか。
自分の劣等感や無力感は自分の可能性を信じて再び歩き始めることでしか解消しようがない。だから私は、自分の成長可能性を信じている。今だに。

そこを無視して世の中が悪い他人が悪いばかり言っていると体に毒が回りそうだし、劣等感を無意識の闇に葬ったつもりになって「俺様凄い」と思い込んでいる人は、往々にして他人攻撃に走り勝ちな気がします。そして自分の客観的な状態と自分の意識のギャップが大きくなっていって、ある日突然それに気づかされておかしくなる。

今までさんざん毒を浴びせられたこちらとしては、ご愁傷様と言うだけで同情する気はおきません。
いくら目を背けても、自分からは逃れられない。